昨日の朝、富良野に行って、夕方には帰ってきて、ほんとうに行って来たかどうかあまりわかりませんが、たぶん行って来て、帰って来ると雨でした。
東京で見た「しんせかい」は、それがそこにこんなにヒトイキにグワシャー!と立ち上がってしまった驚きの占めるおかげで、また、別の意味での驚き(劇中にある)、や、おかしい、や、うんうん、といった何かのおかげで、また、その劇や人の「周り」にあった爆発的な何かのおかげで、「作品」を「作品」として見ることはできなかったのかも。
「作品」を「作品」として見ることが必ずしも必要なことかといったら、そうでもないと思うのですが、というのは、なんじゃこりゃなんじゃかわからないけどとにかくなんかすげえおもしろい、というものや、これのなにかとは言えないがこれが大好きだ、というものや、疲れているやもこってり忘れて動かす何か、というものなどの極めて理にはかなっていない感覚というものは、「作品」を通したいろんなところから発せられるものであって、どちらかというとそっちの方が、「作品」のここがこんな風におもしろくて、こんな風にこうで、だからこうなのであります、ということよりも大事なのではないか、少なくともワタシがあらゆる「作品」と言われるものに対峙する時に思っていることなのではないか、と、思え、そもそも「作品」のここがこんな風におもしろくて、こんな風にこうで、だからこうなのであります、には決してまとめられない「作品」のことを、だからおもしろいと言っている時、「作品」のここが、と語ろうとするのはとても困難です。困難と言うか、語る意味がない、と思っていた。それくらいに「作品」の外側にあるものと「作品」とに境界をつけるのは(色々なものの中から「しんせかい」の結果だけを浮かべるのは)すでに難しいことでもまたあったし、またワタシ自身がそれでいいと思ってきているからして、もっと難しい。(というか、それを抜きにしても、作品を批評するという行為の類いは何れの場合にも嫌いで、その必要性はあったり好む人もいるだろうが、ワタシが一生できることではないと思ってきている。明らかなクソをクソと言うのは別。また批評を受けることはまるで構わなくてむしろよい。)
ワークショップの時もそうだったけど、挙げれば挙げるほど、具体的にすればするほど、実体がチンケになっていくような気がするというのはここでもそうで、「人間は真理を知れば知るほど無口になる」という、武術家の
甲野善紀さん(ヒーロー)がいつかの随感録に綴っていたことを、何かの度に頻繁に深く納得をするのも、これに通じている気がする。ただの無口を「真理を知っている故」とするのは、甚だ勘違いの場合が多々であるので気をつけたしだけど。でもやっぱりワタシは多くの無口を信じる傾向があります。実際には何も交わされていないところに(もしくは形になっていないところに)、本当に交わされているもののことを。従って、どうだった?とは、聞かれるのもそうだけど聞くのも苦手。
ただ、この度、FICTION山下澄人さん(ヒーロー)の敬愛するという小説家の
保坂和志さん(ヒーロー)がホームページで書き込んでいた「しんせかい」の、さらりと書かれた大変具体的なメモには感銘を受けたのであって、色々な意味で色々なことを考え、あれを読む前とあとでは、がらりとその感覚が変わった。それに加えて東京で見た方の抽象的な感想や具体的な感想やを聞かせてもらううちに、ワタシは東京まで行って何を見たかすっかり忘れました。もちろん登場人物やの隅々まで、セリフのあちこちまで、鮮明に覚えてはいるのだけど、どうにも「しんせかい」を忘れた。
じゃあそのメモを読んで何を思ったかと言うと、やっぱり、的確な素晴らしい答えなど全然いらない。のだけど、的確でなくとも、あのような見方の上に伝われようとするなにかは、ここまでにおもしろいか、そしてやっぱり必要か。またそれがつくるものにとっての敬意にもなるか。語られるに意味あるか。例えば、そこにとても具体的に書かれていたことに、ワタシは大きく納得するところと、全然納得しないところと、色々あって、それがあのような鋭い表現者と何者でもないワタシの、見えているものの差でもあるとして、何れにせよそうした十人いれば十人違うものが明らかになること、という断然におもしろいことに気付くは、見た者の中でさえ率直な表現がされあわなければ、ありえない、ということ。特に、1番おもしろいものを、どうにかおもしろいのだよと多くに伝えようとする際にワタシは、やっぱり的確な素晴らしい答えを求めがちになり、一観客としてあるはずの1番おもしろい率直な何かが削がれてしまうのだと思った。としたところで、ではもう一度、ゼロになって「しんせかい」がどうだったかを考えてみようとするのだけど、もうすでに見ていたときの状態がゼロではなかったので、それは無理なことでした。ということで、どうにも「しんせかい」を忘れたのです。
だから今回、富良野公演、新しい「しんせかい」をまた見ました。もちろん、東京とは中身も変化していれば、舞台の規模もまるで違うし、人の見た目や状態も違えば、茜さん(劇に登場する子)も大きくなっていた。別に、そのメモを読んだ後のワタシの頭にどのような変化が起こっていなくても、それは新しい「しんせかい」に違いないのだけど。そういう意味では観客が1人違えば、また同じ場所であろうが時間が少し違えば別物になるのかもしれないのだけど。それにしても今回は輪をかけて、もうまったく「しんせかい」であったこと。
昨年「石のうら」という作品にあった地震のシーンのド迫力のような、富良野の大きな舞台で見るからこその利点(と、敢えて使うと、利点)が、今回の作品にはたぶんなくて、だからこそ、臨場感なるものの空気にごまかされる(と、敢えて使うと、ごまかされる)ことのない「しんせかい」が現れていました。だから、大きい舞台と小さい舞台とどっちがいい、と言ったら、あの作品はとくに小さい舞台がたぶんいいのだろうけど、上から見下ろすのと上から見下ろされるのとどっちがいい、と言ったら、FICTIONには上から見下ろされるのがいい、のだけど(ワタシは)、ああして「作品」が見えたのは、あのような舞台だったからだなあと思って良かったです。それに、公演を重ねて削がれ足され削がれ足されの上にされた凝縮が、だんだんはっきりとした「作品」にしているからだろうなあと思います。そしてなんというか、外側の要素(舞台の大小なり、道具のなんちゃらなり、役者の状態なり、子供の機嫌なり、全部)は、ここまで関係ないのだ、伝わろうとするものがあるとき。とも改めて思います。
率直に内容やシーンに触れるのは札幌公演が終わってからにするとして、そのように見た「しんせかい」は、やっぱり「作品」として断然におもしろかった。自分の中にあるどのような何をとっぱらっても、おもしろかったです。あちらで見たストーリーは、ストーリーであって、ストーリーでなくなってたりしました。だからといって、わけのわからないものではない。なにがって、彼らの、絶対的に信じていて、永遠に疑い続けている姿勢とは、現れた。
新しいといわれているものは、すでに新しくない、とはその通りで、今新しいと言われて評価されているものの何かに属して「しんせかい」にはならないじゃないか。これまでのFICTION全部に通じることであろうが、新しいとさえ言われない、たやすくゆるされない表現にこそ新鮮さがあるとして、それが、あと残り少しの公演においての行き先もわからない「しんせかい」にあるのだ、と、思います。
だから、この感覚を、この現代において面倒くさいことに、足を運んでいただかなければ共有できないとは、ほんとうに面倒くさいことだよ。わあ。だから、劇なのですが。とくに弟のような身に、どうにかして今「しんせかい」を見てもらいたいとき、本当に憤るけど、まあ、だから、劇だし、元気だって憤っていたことであろう。だから改めて、時間を合わせて足を運ぶということは、すごいことだなあと思いますし。あ、誰も読まないほど長え。
残りの公演情報
2008年9月@シアターコア(旭川)
8日(月)PM 7 : 00
9日(火)PM 7 : 00
問い合わせ*090-7511-8699(川谷)
2008年9月@シアターZOO(札幌)
12日(金)PM 7 : 00
13日(土)PM 2 : 00 & 7 : 00
14日(日)PM 2 : 00
15日(月)PM 2 : 00
問い合わせ*090-6448-5652(サワダ)