ジュリエット・グレコなど


のぶこという母からの最近のメールです。
元気?
グレコを聴いてきたよ!ぶっとんだ!!
82歳のばあさんとは思えない。
舞台にはピアノ(これも白髪のじいさん)アコーデオン、
真っ黒な衣装のグレコ・・・それだけ。
詩の内容は大きな字幕で映される。
太くしわがれた ものすごい低音の声、大きな顔と大きな手。
メロディーなんかほとんど なくなって まるで語りのような 芝居のような
歌が とぎれなく 10曲以上。
あっという間に 1時間半が過ぎていた。
まるで 一曲一曲が 映画を見ているような すごい世界だった。
最初から涙が流れ 心臓がばくばくし、若い頃の情熱がかきたてられるよう。
なんだ!この かっこいいばあさん!!
グレコが何者かも知らず、グレコを聞いていないのに、ワタシはグレコに感動しました。
だって、なにそれなにそれなにそれ。
ジュリエット・グレコと検索すればいくらでもでてくるけれど、YouTubeなんかでいくらでも聴くこともできるけど、しかし、これを読んで、そうすることに興味も無ければ意味も無い。ワタシが感動したのは、82歳のばあさんでもないし、そのばあさんの舞台での様子でもないし、そのばあさんがこれまで残してきた作品や姿にでもなくて、たぶん、たったこの瞬間のグレコと、たったこの瞬間ののぶこと、そこに流れていた何かの方だからです。これを読んで、じゃあグレコはよほどすごいのだろう、と、ワタシがどんなに安易にグレコに到達しても、それは決して流れないのです。この瞬間にこんなにのぶこに流れた、ということだけが、ジュリエット・グレコがすごいばあさんなんだ、ということなのだと思います。それだけですごいし、それだけがどれだけすごいか、ということなのだと思います。
しばらくげろげろおえおえしているワタシの様子を、いつも誰よりも心配してくれる人々のうちの1人である、のぶこが、ぎゃあ元気と報告しなければ音沙汰なくて心配しているに違いないのだ、と、気にかけていた人々のうちの1人である、のぶこが、こんな風にひょろっと一発「元気?」とだけやって、ずばばばばばってこれを書いてきたとき、ああ、元気か元気じゃないかよりも、そんなことよりもあのな、これを聞けよって、そんな具合にこれを書いてきたとき、ワタシは元気か元気じゃないかなんてどうでもよくって、元気でした。という風に、ワタシの状況や、のぶこの状況や、関係や、いろんなこと相まってのこれ、でもあるのだから、同じようにして、ただこの文面だけを読んだ人が、もちろんワタシと同じようには感動しないと思います。
ただ、これに限らず、信頼しきった人々が、何かにものすごく感動しているとき、ワタシはそれを実感しなくても、その対象にものすごく感動できる。そんなの見なくても聞かなくても読まなくても、あるいはそれをうっすらと知って例えワタシ自身がそうは思わなくても、それがどんなにいいか(あるいは悪いか)わかります。それ自体よりも、はたまたそれにまつわる評価よりも、もちろんワタシ自身の感想よりも、「それを受けたその人にその時流れた何か」の方が、ずーっとずーっと信頼できます。
あー。
あー。
んで、ところで、ワタシは元気です。



こんばんは。死んだばあさんの服をはじめて着て出かけた。
大きなボタンのついたクラッシイな。借りっ放しの妹のブーツと。
気付けばワタシの持ち物たるやほとんど死んだばあさんのだから。借りっ放しの妹のか。
それにしても最近はもう家にいるばかりでござるものだから、
掲載しようと探っても携帯に残っているフォトが、大根だとか電気だとかで。
一番上の写真もごらんください、なんてアーティスティックな赤い鍋の底ですか。
今はおかげで、なにか、もう全然なにかわからないけどなにか、
もう夢中になって書いている(実際に「書いている」かどうかは別)
のがおもしろいのだけど、もうそれはそうしているのがおもしろいばかりで、
もう送る送る言うていながら、もう心から送る送るというつもりなのに、
それまだまだ送れなくて泣いているのですが、まあ、実際に泣いてはいませんが。
また近々。









































