出たとこ出たとこ


昨日、ものすごいカッコイイおばあさんとすれ違った。白髪で背が高くて、化粧っけはたぶんなくて、ヒール履いてたっけ、パンツはジーンズだったか、青っぽいショールを羽織り、とにもかくにも美しい顔と姿をして歩いていた。ワタシは車の助手席に乗っており、そのおばあさんの横をビュンと通り過ぎただけなのに、その瞬間、なにかがスカーっと晴れました。あんな美しい女の人を知らない。まだ興奮しています。

何回か寝たら、仕事で1人でソウルに行く。本日にして、飛行機の時間も、行く先々も、宿泊場所も、出会うであろう人も、なにもかも、把握しておらず。あとほんの数日で、それらを把握することになるとも思えず。そんな調子に周りがざわついてきました。ワタシはそのことにざわついています。行けば行くのだ。カンサハンミダ。

だからそれまでの仕事詰め。きいきい言っても、のそのそしてても、できることは同じであって、のそのそ。

かつて遠くの国で一緒に劇をしていた人が、札幌にいるのだって。札幌公演なのだって。突然連絡くれたのに、それは突然すぎたし、ワタシはのそのそしすぎているし、ついに出会えませんでした。しかし、かつて遠くの国で一緒に劇をしていた人が今札幌で劇をしている、と、ワタシは知った。ネオかぶき、花組芝居。9日から道新ホールにて。

週末に辿り着くのなら、富良野コンサート。
もう葉っぱは赤いでしょうか。


大丈夫ですか


たしかに両鼻から流れ出ていた透明のさらさらとした鼻水は、すでに不気味な色味と粘り気を帯びているのだし(失礼)、がんがんする頭は軽くなり、あったであろう熱も下がった。

しかしワタシはただこれを、終わらせたいのであった。終わらせたい一心なのであった。希望なのであった、まやかしなのであった、例えば心配されるのが面倒くさいのであった、不調なワタシに耐えられないだけなのであった、こんなワタシであることが望まれているはずなのであった、だからこんなワタシにならなければならないのであった。しゃらくせえボケ。しかしワタシの調子などワタシがコントロールできるわけがないことをこれだけ知らされながら。これでは知っているだけである。

どれだけワタシの調子などというコントロールできないものをワタシがコントロールしようとするか、そしてそれがどれほど信用ならないものかは、遠く、入院時によく現れて出た。

例えば、記憶のない最低な(かどうかはわかりませんが)時期が、昨年の入院時にはあって、その時ワタシが頻繁に訪れる看護士さんに振りまいていたのは、百万ドルの笑顔と「大丈夫です」だったと言う。そりゃそうだ、当時の「大丈夫ですか」に対する答えなど「大丈夫です」1つに決まっていた。「大丈夫でない」と答えて解決することなどあるわけがない。しかしそこですでに、それは解決するかどうかの問題ではないのである。なのにそれは「反応」を越えて、そうして「反射」にすらなりあがっていたのだ。

どの看護士さんもワタシの「大丈夫です」には、すんなりだまされていった。しかし1人の聡明な看護士さんが幸運にもそれを疑い、失礼にも唐突にこう聞いてきたのだ「お名前は?」。迷いもせずにワタシは百万ドルの笑顔で答えるのである「大丈夫です」。もう一度聞かれた。ワタシは変わらぬ笑顔で続けた「大丈夫です」(これはワタシには記憶のないことなので、後から聞いた話にすぎませんが。)

つまるところ、その時ワタシは会話を成り立たせることもできないほど「大丈夫でなかった」のだ。結局その後しばらくは、本当に全然大丈夫でなかった。まあそんな時には、大丈夫か否かの判断をすることがまずできないのであろうが、にも関わらず、その偉い看護士さんがいなかったとき、ワタシは大丈夫だったのである。ワタシが大丈夫と言ったから。百万ドルの笑顔で。では、これを聞いて誰がてめえの「大丈夫です」を信じますか。

とまあこれは極端な話として、今改めて思うのが、まあなんと「大丈夫です」と言って生きやすくされた外の世界であるか、ということだ。調子が自分で管理されなければならないなどと、直接言われなくてもどれだけ余儀なくさせられていることか。そしてワタシはまだなおその中で、自分で管理できると思い込み、また管理したい、もしくはしなければならないと思うのだ。もちろんそれら「大丈夫です」は、ウソを認識して出ているものでもないはずなのである。でもだからこそ「病気」なのは、大丈夫でないことではなく、大丈夫かどうかなどわからないのに「大丈夫です」と言うことにあるのではないか。

従って、ちょうど良く週末に風邪をひいて、キノコ生えるくらい腐りました、熱も下がって、はい、月曜日から万全です、んなあほな。調子良く反応している場合かよ。来週の出張だのに間に合わせている場合か。ワタシにできることはなにもないはずなのに。アナタにもソナタにもドナタにも。過ぎるまで、絶不調で、それだけで、それでいいのですね。そうじゃん。そうじゃん。

はい。うん。げほ。そう。わは。


裏BBSを設置


どっぷり風邪ひきまして、眠れなくなるくらい寝て、眠れないのに起きれなくて、ごろりんごろりんもんどりうってたりして、一昨日、昨日、今日。布団やら全身やら脳みそからキノコ生えるかもーって。うへー。生えたら喜んで食いますけどね。冷蔵庫もからっぽだし。しかし看護士さん買おうかと思いました。宝くじ当てて。だははははは。世界の風邪ひきさんやもんどりうってる人、がんばってね!!キノコ生えるくらい腐ったら治った!!たぶん!!

ところで、からっぽのうた♪のファンだったというメッセージや、最近考えてたのがからっぽだったというメッセージや、自分の顔にらくがきしたらそういう顔になっちゃうよという忠告やをいただいたりして、最近そういう突っ込みだのを自分だけ楽しむのがあれなので、ものすごい今更のBBSを設置しました。実験。各エントリー右下の「裏BBS」をクリックするといけるようになってます。適当にどうぞ!!

裏BBS
http://supermind.7.bbs.fc2.com/


からっぽのうた


同じようにして、先日突然に思いだした歌がある。これを歌っていた野道れいさんは、ほんとうにそこがからっぽになってしまうかのように歌った。小さいワタシは、これを野道れいさんが歌うと、よくわからないけれどとても不安になった。野道れいさんが、どこを見つめているか、わからなかった。そこにはなんの「主張」も「恰好」もなかった。小さいワタシは、だからそれを決して「好き」にはならなかったのだけど。また突然思いだしてより、改めてこの歌詞を見たワタシは、すげえ歌だ、すげえ歌だと思って、今記さずにいられない。

からっぽになろう
からっぽになろう
からっぽになれば
なんでも入る

からっぽになろう
からっぽになろう
からっぽになれば
なんでも見える

からっぽになろう
からっぽになろう
からっぽになれば
なんにもいらない

からっぽになろう
からっぽになろう
からっぽになれば
お空は晴れる

からっぽになろう
からっぽになろう
からっぽになれば
わたしは宇宙
からっぽになれば
わたしはあなた

by 野道れいさん


格闘ピアニスト


最近、色んな場面で、ものすごく突然に、なにか、ともすればもう絶対に思いださなかったかもしれないことを思いだすのだ、例えば、先日ピアノを弾いていたら、ずっとずっとずっと前に聞いたことがあるピアノのことを突然に思いだした。一体それをどのようにどこで聴いたかも思いだせなかったのだけど、なぜか突然にものすごく気になって、その感じを母に説明し、CDがあるはずじゃなかったか、と言って探してもらうと、CDはなくて、古ーいビデオがあった。えー、でも音でしか覚えていないのだけど、どんな風に弾いていたかという記憶がないのだから、それはCDだったはずなのだけど、だからそのビデオじゃないと思うのだけど、と、母の確信を疑いつつも、雑音入りの画面がちらつくその古いビデオを見れば、ワタシが説明していたものに違いなかったのだ。違いなかったのだけど、しかしワタシが説明していた曲が出て来なかったので、やっぱり違うのかもしれないのだけど、まあそんなことはどっちでもよくて、とにかくそのビデオを見た。

そのビデオの中でピアノを弾いていたのは、リュウ・シクンさんという中国のピアニストで、見た目は事務員みたいな、なんというか五分刈りの、眼鏡をかけたおっさんだ。にこりともせずにピアノの前に座り、ベートーベン、リスト、ショパン、とかいう、クラシックの、しかも難易度最高級と言われている曲達を、びっくりするほどの速さで、びっくりするほどのでかい手で、びっくりするほどの曲の表情で、びっくりするほど楽しそうに、しかしおっさんは無表情で、弾く。それがいいとされるのか否かは知らないが、あんなにリストやショパンが、リストやショパンに聴こえなかったことはあろうかよ。ほんの少し見てみるだけだったはずのそのビデオ。一時間半かそこらのコンサートは、あんぐりのうちに一瞬で過ぎたのだ。

驚いたのは、そのコンサートが終わってからである。その素っ晴らしいコンサートにしておっさんは、もっのすごい地味にお辞儀をすると、客席からは鳴り止まない拍手に、アンコールが続いた。

アンコールに答えて1曲弾くおっさん(あ、リュウ・シクンさん)。なんとそこで、それまで弾いた何よりも激しい曲(何だったか忘れた)を、それまで弾いた何よりも激しく弾いた(というか叩いた)。うひゃあ、アンコールでそれが出ますか。とさらにあんぐりしていたら、もう1度出て来てアンコールに答えてもう1曲弾くリュウ・シクンさん。なんとそこで、その前に弾いた曲よりももっと激しく弾いた。なんだね、全然あそこで終わっていなかったんじゃないか。とさらにあんぐりしていたら、もう1度出て来てアンコールに答えてもう1曲弾くリュウ・シクンさん。だんだんその辺から、その激しさに、この人は死んでしまうのではないか、ピアノは割れるのでないか、と思い始めるのだ。もう1度出て来てアンコールに答えてもう1曲弾くリュウ・シクンさん。ピアノも本当に揺れてくるし、リュウ・シクンさんのお尻も浮いている。もう1度出て来てアンコールに答えてもう1曲弾くリュウ・シクンさん。もう客席も拍手をしていいものかどうか困惑しはじめたくらいにして。もう1度出て来てアンコールに答えてもう1曲弾くリュウ・シクンさん。時にそれはそれは優しく静かに。もう1度出て来てアンコールに答えてもう1曲弾くリュウ・シクンさん。ぎゃははははは。もう笑うしかできないのである。

結局彼は、コンサートと同じくらい、アンコールに答え続けた。もしかしてもしかするとアンコールの方が長かったのかもしれない。どっっぷりと疲れた。アンコールがなかったとき、果たしてコンサートはあそこで終わっていたのだろうか、ワタシはピアノのコンサートのことはよく、というか、全然知らないけれど、母に言わせると、まあアンコールの曲数もあらかじめ決まっていて、ということも多いのらしいから、従ってこれは、全て予定されていた構成なのかそうでないかは、わからない。

しかし、そんなことは、どっちだっていいのである。とにもかくにも、おっさんの地味な顔は、アンコール以降、曲ごとに、劇的に変わっていったのだ。予定されていた構成であろうが、あの汗は予定してまき散らせる汗ではなかった全然。あの、全力が、次の全力を生んでいった感じ。これでいいか!これでもか!つまり、どこで終わろうが、なんの曲までを披露しようが、全瞬間が、彼の全てに見えた。

どんだけ名の馳せた、なんたる世界のピアニストなのだろうリュウ・シクンさん、と思って、ウェブで検索してみるも、その情報はほとんど見つけられない。ビデオに載ってた英語名でではなく、ちゃんと中国名で検索したらあるのかな。海外招聘審査員とかあるから、その世界では有名なのだろうか。よくわからないけど、あれだけの技術をもって魂をもって、一般に知られたピアニストで全然ないことは確か。一体なぜそんなビデオを母が持っているか、一体ワタシはそれをいつ見たことがあって、なんでその感じを思いだしたか、そもそもそれが思いだしたものか、は、なぞのままだが、そんなおかげでそんなものを見れた。

これさえあれば、この人さえいれば、このことさえ考えられれば、あーワタシは死ぬまで何もいらない、と思うことがあります。彼のピアノを見ていても、このようなピアノがあるならば、ピアノだけで一生の全時間なんて全然足らない、と、思い、そういう思いに当たるとき、なんと幸せだと思う。

そのビデオを見たのは確か先週末のこと。
昨日、母からメールが届きました。
「中国の子供の曲見つかった〜!!!」
リュウ・シクンさんが弾いていた唯一のクラシック以外の曲のことである。
やれ、波多野信子さん、次の自分のコンサートのことなど何も考えてないに違いない。


秋のコンサーツ


えーと、どうやらすっかり秋になってしまっているので、
色々と差し置いて、告知をしまーす。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

塚田タカヤと波多野信子のコンサート
10月11日スペシャル

★富良野演劇工場まつりロビーコンサート
時間:12:30〜
場所:富良野演劇工房

★サリーリコンサート
時間:19:00〜
場所:エスニックカフェ 「サリーリ」
入場料:1500円

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ありがとうだらけの出会いによる、はじめての場所です。
サリーリは、久しぶりの上富良野のハンモックカフェです。
また出会えることでしょうか、ぜひ出会いましょう。


パスポート


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そういえば、かつてのような、ワタシに旅、ワタシに出会い、ワタシに体験、という何か願望のような、衝動のようなものもなく。あと死ぬまで一生一ミリも動かなくたって、全然いい。本気でいい。のは何故か。どこへ行こうが行くまいが、世界は同じだけ広がっておることをどこまでも感じる今。どこに行ったって、どこに行かなくたって、どこへでも行けるのです。誰とでも。だからまた、どこかへ行かせてもらうを否定するも、違うのです。つまり、まあ、どっちだっていい。どっちもいい。問題はとっくにそんなところにはない。たぶん。


「しんせかい」夏


昨日土曜日、札幌は秋晴れで。隣の公園では近所の幼稚園の運動会をやっていて、出勤時、行きがけに同僚の子の玉入れを応援した。大人の足では数歩で到達できる障害物競走とか。スタートラインで「緊張して吐きそう」と一丁前に申している子供を大人は笑ったが、ああそれ、人間よりずっと速い種が一丁前のオリンピック選手を笑うであろうのと同じね。ふふふ。と。いつもは賑やかな職場も休日1人で仕事をする時はBGMすら無しで。日差しは強いが、吹き込んでくる空気は冷たくて、なんだか昨日、突然に夏は過ぎたなあ。と。

先日全ての公演が終わった「しんせかい」の、劇の中の季節は暑い暑い夏でした。外の世界でも、寒かった北の夏はどうやら9月に持ち越されて、暑い暑い「しんせかい」のツアー中がまさに暑かった。秋晴れの中、昨日突然に夏は過ぎたなあ、と思う瞬間があったとき、これら色々の不思議にはまだ揺られたままです。

一体どの辺が不思議なのだと思われるでしょうか。たまたま夏に公演が予定されていた劇の、設定が敢えてか否か夏とされて、北の9月がいつもと違って夏だった、ほら温暖化やらで世界はおかしいしのですし、なにを不思議がりますの、ということか。まあ、そうなのでしょうか。でもです。

「しんせかい」という作品は、夏であって「ある夏のできごと」ではなかった。あるいは、初めはそうだったのかもしれません。公演を重ねてなにかが変化していったとき、や、それが理由かはわかりませんが、あれだけ暑い夏の設定が、途中夏とも感じないことに気付いたこと。あれだけ汗かいているのに、あれだけジュース飲んでるのに、あれだけミーンミーン聞こえるのに、あれだけミウラレクが釣ってるのに、あれだけミチコが豚かきするのに、あれだけ登場する人も「あちい」って言っているのに、あれだけ山登りカレーセットなのに、あれだけ小谷が少し日に焼けるのに。

もちろん、どの断片を浮かべても、あれははっきりと夏です。あんなに強く、夏でした。それはどれだけの何が公演の度に変化しようと最後まで、夏でした。ではなぜそうか、といえば、きっと、あれが特別な「ある夏のできごと」でなくなっていくほどに、あのまま季節が巡って(もしくは遡って)存在するそれぞれの人が浮かぶからなのではないか。それは、夏だから、夏だけの、夏じけゃん、という、なにか夏に向かった特別な、つまり「ある夏のできごと」があるのでなく、それがたまたま暑い暑い夏だった中にだけ起こることなのか、と、思いました。その中で夏であるということが、あんなに夏なのだ、と思います。

で、不思議に揺られてるのは、それが、昨日突然に夏は過ぎたなあ、と思ったとき、そういう「しんせかい」の中の夏と、この夏が、同じであったこと。「しんせかい」公演が終わって数日間、なんでワタシがという話ではあろうが、どんな強固な意思にも反した偉い身体が動かぬまま過ごしながら、秋風に吹かれて夏のはじめから終わりまでを、ふと思ったとき、一連の日々は「この夏に起こったできごと」ではない。強いて言うなら「できごとについてきた夏」の方なのです。もっとずっと前からの。もっとずっと先に続く。で、劇の中と同じように、その中で夏であるということが、あんなに夏なのです。

どっちでもいいじゃんか、と思われるそこに、たぶんとても違いはあって、それが「ある夏のできごと」「この夏に起こったできごと」の場合、やっぱり「できごと」で終わるのだ、「めでたし」なのだ、という気がするということ。それは、めでたしには違いないのですが、そこで、全てのめでたしとやらは、果たして本当にめでたいんでしょうか。

「しんせかい」公演の終わりに、どうやら「しんせかい」の終わりを感じないのは、夏が過ぎた日に、夏のできごとの終わりを感じないのと同じで。「しんせかい」や、この夏に限ったことではなく、そこに起こっている全てのことは1つじゃなさすぎる。ことが、まるごとすごい。それにびっくりするほど、様々な人の中に様々な角度の「しんせかい」が、まだ続いていてこれからも続くであろうを目の当たりにして、ますます、あれが「ある夏のできごと」「なんとか劇」などというものに収められるわけがないことを思い、ワタシは全部ひっくるめてまだ楽しい、というだけにござるよね。

すごいなあ、って。ただただ。人ってあんな風に動くものか。すごいなあ、人ってこんな風にやる、人ってこんな風に来てくれたり、人ってこんな風に見る、何かってこんな風に伝わったり。ワタシがここで、存在しない区切りに敢えて区切って、ありがとうございました、って言うとしたら、その対象は、全てに対してそういう風に感じられること、じゃないでしょうか。だってすごいもの。人。と、あれを通じてみんながそれぞれにそう感じていることがまたすごいもの。

どうしようもない。全然どうしようもない。


「しんせかい」富良野


昨日の朝、富良野に行って、夕方には帰ってきて、ほんとうに行って来たかどうかあまりわかりませんが、たぶん行って来て、帰って来ると雨でした。

東京で見た「しんせかい」は、それがそこにこんなにヒトイキにグワシャー!と立ち上がってしまった驚きの占めるおかげで、また、別の意味での驚き(劇中にある)、や、おかしい、や、うんうん、といった何かのおかげで、また、その劇や人の「周り」にあった爆発的な何かのおかげで、「作品」を「作品」として見ることはできなかったのかも。

「作品」を「作品」として見ることが必ずしも必要なことかといったら、そうでもないと思うのですが、というのは、なんじゃこりゃなんじゃかわからないけどとにかくなんかすげえおもしろい、というものや、これのなにかとは言えないがこれが大好きだ、というものや、疲れているやもこってり忘れて動かす何か、というものなどの極めて理にはかなっていない感覚というものは、「作品」を通したいろんなところから発せられるものであって、どちらかというとそっちの方が、「作品」のここがこんな風におもしろくて、こんな風にこうで、だからこうなのであります、ということよりも大事なのではないか、少なくともワタシがあらゆる「作品」と言われるものに対峙する時に思っていることなのではないか、と、思え、そもそも「作品」のここがこんな風におもしろくて、こんな風にこうで、だからこうなのであります、には決してまとめられない「作品」のことを、だからおもしろいと言っている時、「作品」のここが、と語ろうとするのはとても困難です。困難と言うか、語る意味がない、と思っていた。それくらいに「作品」の外側にあるものと「作品」とに境界をつけるのは(色々なものの中から「しんせかい」の結果だけを浮かべるのは)すでに難しいことでもまたあったし、またワタシ自身がそれでいいと思ってきているからして、もっと難しい。(というか、それを抜きにしても、作品を批評するという行為の類いは何れの場合にも嫌いで、その必要性はあったり好む人もいるだろうが、ワタシが一生できることではないと思ってきている。明らかなクソをクソと言うのは別。また批評を受けることはまるで構わなくてむしろよい。)

ワークショップの時もそうだったけど、挙げれば挙げるほど、具体的にすればするほど、実体がチンケになっていくような気がするというのはここでもそうで、「人間は真理を知れば知るほど無口になる」という、武術家の甲野善紀さん(ヒーロー)がいつかの随感録に綴っていたことを、何かの度に頻繁に深く納得をするのも、これに通じている気がする。ただの無口を「真理を知っている故」とするのは、甚だ勘違いの場合が多々であるので気をつけたしだけど。でもやっぱりワタシは多くの無口を信じる傾向があります。実際には何も交わされていないところに(もしくは形になっていないところに)、本当に交わされているもののことを。従って、どうだった?とは、聞かれるのもそうだけど聞くのも苦手。

ただ、この度、FICTION山下澄人さん(ヒーロー)の敬愛するという小説家の保坂和志さん(ヒーロー)がホームページで書き込んでいた「しんせかい」の、さらりと書かれた大変具体的なメモには感銘を受けたのであって、色々な意味で色々なことを考え、あれを読む前とあとでは、がらりとその感覚が変わった。それに加えて東京で見た方の抽象的な感想や具体的な感想やを聞かせてもらううちに、ワタシは東京まで行って何を見たかすっかり忘れました。もちろん登場人物やの隅々まで、セリフのあちこちまで、鮮明に覚えてはいるのだけど、どうにも「しんせかい」を忘れた。

じゃあそのメモを読んで何を思ったかと言うと、やっぱり、的確な素晴らしい答えなど全然いらない。のだけど、的確でなくとも、あのような見方の上に伝われようとするなにかは、ここまでにおもしろいか、そしてやっぱり必要か。またそれがつくるものにとっての敬意にもなるか。語られるに意味あるか。例えば、そこにとても具体的に書かれていたことに、ワタシは大きく納得するところと、全然納得しないところと、色々あって、それがあのような鋭い表現者と何者でもないワタシの、見えているものの差でもあるとして、何れにせよそうした十人いれば十人違うものが明らかになること、という断然におもしろいことに気付くは、見た者の中でさえ率直な表現がされあわなければ、ありえない、ということ。特に、1番おもしろいものを、どうにかおもしろいのだよと多くに伝えようとする際にワタシは、やっぱり的確な素晴らしい答えを求めがちになり、一観客としてあるはずの1番おもしろい率直な何かが削がれてしまうのだと思った。としたところで、ではもう一度、ゼロになって「しんせかい」がどうだったかを考えてみようとするのだけど、もうすでに見ていたときの状態がゼロではなかったので、それは無理なことでした。ということで、どうにも「しんせかい」を忘れたのです。

だから今回、富良野公演、新しい「しんせかい」をまた見ました。もちろん、東京とは中身も変化していれば、舞台の規模もまるで違うし、人の見た目や状態も違えば、茜さん(劇に登場する子)も大きくなっていた。別に、そのメモを読んだ後のワタシの頭にどのような変化が起こっていなくても、それは新しい「しんせかい」に違いないのだけど。そういう意味では観客が1人違えば、また同じ場所であろうが時間が少し違えば別物になるのかもしれないのだけど。それにしても今回は輪をかけて、もうまったく「しんせかい」であったこと。

昨年「石のうら」という作品にあった地震のシーンのド迫力のような、富良野の大きな舞台で見るからこその利点(と、敢えて使うと、利点)が、今回の作品にはたぶんなくて、だからこそ、臨場感なるものの空気にごまかされる(と、敢えて使うと、ごまかされる)ことのない「しんせかい」が現れていました。だから、大きい舞台と小さい舞台とどっちがいい、と言ったら、あの作品はとくに小さい舞台がたぶんいいのだろうけど、上から見下ろすのと上から見下ろされるのとどっちがいい、と言ったら、FICTIONには上から見下ろされるのがいい、のだけど(ワタシは)、ああして「作品」が見えたのは、あのような舞台だったからだなあと思って良かったです。それに、公演を重ねて削がれ足され削がれ足されの上にされた凝縮が、だんだんはっきりとした「作品」にしているからだろうなあと思います。そしてなんというか、外側の要素(舞台の大小なり、道具のなんちゃらなり、役者の状態なり、子供の機嫌なり、全部)は、ここまで関係ないのだ、伝わろうとするものがあるとき。とも改めて思います。

率直に内容やシーンに触れるのは札幌公演が終わってからにするとして、そのように見た「しんせかい」は、やっぱり「作品」として断然におもしろかった。自分の中にあるどのような何をとっぱらっても、おもしろかったです。あちらで見たストーリーは、ストーリーであって、ストーリーでなくなってたりしました。だからといって、わけのわからないものではない。なにがって、彼らの、絶対的に信じていて、永遠に疑い続けている姿勢とは、現れた。

新しいといわれているものは、すでに新しくない、とはその通りで、今新しいと言われて評価されているものの何かに属して「しんせかい」にはならないじゃないか。これまでのFICTION全部に通じることであろうが、新しいとさえ言われない、たやすくゆるされない表現にこそ新鮮さがあるとして、それが、あと残り少しの公演においての行き先もわからない「しんせかい」にあるのだ、と、思います。

だから、この感覚を、この現代において面倒くさいことに、足を運んでいただかなければ共有できないとは、ほんとうに面倒くさいことだよ。わあ。だから、劇なのですが。とくに弟のような身に、どうにかして今「しんせかい」を見てもらいたいとき、本当に憤るけど、まあ、だから、劇だし、元気だって憤っていたことであろう。だから改めて、時間を合わせて足を運ぶということは、すごいことだなあと思いますし。あ、誰も読まないほど長え。

残りの公演情報
2008年9月@シアターコア(旭川)
8日(月)PM 7 : 00
9日(火)PM 7 : 00
問い合わせ*090-7511-8699(川谷)

2008年9月@シアターZOO(札幌)
12日(金)PM 7 : 00
13日(土)PM 2 : 00 & 7 : 00
14日(日)PM 2 : 00
15日(月)PM 2 : 00
問い合わせ*090-6448-5652(サワダ)


サカナくさい


うちの冷蔵庫は今、冷凍室がわかれていない、あのよく事務所とかに置いてあるような、よくホテルとかについてるようなちっさいやつだけど、夜中までやっている向かいのスーパーが冷蔵庫のようなものだし、この家で何かを食す人はワタシだけだし、特に食物保存には困ったことがない。でもほら、ご飯とかは、いっぱい炊いて、小分けにして、冷凍とかすんじゃんね。で、食べる時に、プっと出してチンとかすんじゃんね。って知らないけどワタシはすんじゃんね。で、プッと出したご飯はいつもコチコチだから、この冷凍室のどこかに欠陥があるとは思っていなかったわけ。で、今日はこの前実家からもらってきた鮭を焼こう、ホイル焼きにしよう、と思ってフムフム鼻歌うたいながら取り出したら、その鮭、凍ってなかったの。鮭だけ。同じとこに入ってるご飯はコチコチなのに。えーーーー。って。

でも今日はもう結構はやくから、ホイル焼きにするのだ、って思っていたから、簡単には諦めないのだから、なんでか知らないけどワタシも。変色しかかった鮭ながめて、ニオイいっぱい嗅いでみて、クビをかしげて、それから何回もニオイ嗅いでみて、で、ふりかけだ、って判断して、時間をかけてカラカラのフレークにしました。何日か冷凍室で冷凍されてなかった鮭を全部。で、カラカラのフレークを、ちょろっとつまんでみて、たぶん、おそらく、たぶん、おそらく、それはイケると思ったのだけど、全部カラカラのフレークにしてから、でもやっぱり食べるのやめたのです。なんとなく。時間をかけて、色々味付けまでして、カラカラのフレークを全部、新聞紙にくるんで捨てた。なんとなくです。

そしてしばらくして、本当にしばらくしてからなのだけど、ふと。やべえ、もう超サカナくさい。手が。部屋が。干してあった洗濯物が。まあ普通サカナとはくさいものだけど、あれはやっぱり絶対に食べるべきではない鮭だったのだと、なんとなく捨てたのは正解だったのだと、どんどん明らかになっていくサカナくささで、ファブリーズもびっくりだ。今もくさい。どうやってもくさい。もうニオイの元はどこにもないはずなのだけど、鼻の裏が、たぶんくさい。恐らく明日もまだくさい。サカナくさい。とにもかくにも。

しかし、ホイル焼きを食そうとして、時間をかけてフレークをつくってから、結局食べたのは納豆ごはんで、残ったのがこのくささである時、なんと、どこかがはっきりと高揚したのであります。鮭が無事にコチコチに凍っていて、ホイル焼きをおいしく召し上がっていたとき、ワタシは「ホイル焼きがおいしかったですう」とは書いていないはずなのだ。

食えもしなかったサカナのただただくささ、のようなものが、人生を彩っていること。どんな彩りか知れませんがつまり、目的があって、計画通りにそこに辿り着いたとき、残念ながらその目的を超えることはできません。と思うばかり。従って、ホイル焼きが食べられなくても、どうか落胆しないでください。食べられなかった上にくさくなったって、これっぽっちも嘆いている場合ではありません。なぜなら明日、おめえくせえ!と言われないために必死でなんとか工夫しなければならないからです。がはは。真面目にです。

というわけで、こうして日々、大小さまざまな計画狂いにまみれつつ、例えばつい先日には、これからの仕事で当てにしていたヘルパーに、オマエとは仕事はできない、と突然申され、では喜んでさようならと返してから今大変に慌てていたりしつつ、しかしつまりは、ワタシも元気で、家族も元気で、弟も元気ということです。ありがとう。くさいけどね。


いつのまにやら明日から、FICTION北の公演がスタート。
この度は、どんな風に超えてくるのか、楽しみで楽しみで楽しみ。
札幌公演は来週末。ご予約まだの方、ご連絡お待ちしてます☆


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