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2000年05月

18日

DAVID LYNCH 04

奇妙なリアリズム
「イレイザーヘッド」の特異性により、この作品は明らかにカルトファンにとっての完璧な映画になった。スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅(1968)」にも少し通じ、「イレイザーヘッド」は映画界の宇宙を漂う独立した惑星のごとく存在するが、彼の作品と違うのは、その宇宙力が家庭内の現実性によって支えられていることだ。このリンチの最初の長編映画が描くのは、ヘンリー・スペンサーという男と、打撃をうけた工業地帯の中での子供を持つ夫婦としての彼の生活についてで、ぼんやりとしたぬかるみにまみれた景色が工場や機械音に取り付かれている。空想に近いこの映画のセットは、疑いなくリンチが妻と娘と住んでいたフィラデルフィアの環境を呼び起こす。それが、この作品の鍵の1つでもある、奇妙さを帯びたリアリズムだ。実際「イレイザーヘッド」の主題は、とても簡潔に、全て高度にスタイル化された、不眠、同棲、家庭生活や隣人付き合いに対する様々な不安、小さな子供を持つ夫婦の挑戦、と要約されることができよう。これは作品の力を引き起こす、この作品の普通ならぬ美学である。白黒の映像は、暗くてすすだらけの雰囲気を作り、リアリズムからは離れたサウンドトラックが伴う。またこの作品の世界には奇妙な混合生物が住み、とくに赤ん坊は、新生児と言うより、物悲しい音を出す生き物のように見える。

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  この作品の息詰まるような空気、一連のアニメーション、手作りの特別な効果、変容の感覚は、無根拠ではなくそのためだけに創造された、奇怪な実体感のようなものを視聴者に与える。「イレイザーヘッド」は、作り手の潜在意識と視聴者の潜在意識を直接的に結びつける事ができる映画だ。また何より、登場人物の内在する弧をスクリーン上に変換し、この場合は、ジャック・ナンスが際立ってヘンリー・スペンサーを演じた。ジャック・ナンスは、何年もに渡ってリンチお気に入りの俳優の1人となり、彼の作品の大多数に出演することになる。この登場人物のスクリーン上における内なる旅は、自らが理解していることは何もないと内的な変容を遂げようとしているかのような、悩める者として表現される。静かでゾッとする不安感が「イレイザーヘッド」を圧制し、たくさんの異なった空気や感覚、心と身体の根本状態に占められている。
  実際「イレイザーヘッド」に起こる一連の出来事を総括するのは難しく、この作品は、はっきりとした始まりと終わりを持ったストーリーというよりも、物語風な変化の連続、ますます衝撃的なシーンの組み合わせとして作用しているのだ。シーンにおいては、ヘンリーがメアリーの両親の家にてひどい食事に招待され彼女の妊娠が発覚した、ということよりも特筆すべき、いくつかの重要な場面が突出している。例えば、ヘンリーが、奇妙で人工的でさえある小さなチキンを切り分けることを頼まれ、その足がまだ動めき血を流し始めるシーンは、忘れることができないだろう。これをはじめとするこの作品を通した多くのシーンは、紛れもなく奇怪であり、またそれは恐怖に転じるが、同時にリンチ作品によく現れるブラックユーモアを内在している。メアリーの両親の家のシーンにおける途方もなく重たい空気は、たとえばタバコを吸う祖母や、管に話しかける配管工のメアリーの父などといった、とても正気でなく不穏でさえある細部に、とめどなく重ねられている。このリアリズムと空想的な家庭生活の組み合わせは、カフカの世界を呼び起こし、リンチはたびたびその関係性を注目されてきた。

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  実際にリンチは、カフカの「変身」の映画化を手がけることを考えたこともあった。二部では、赤ん坊の全てのシーンが作品の内なる抑圧感を増大させる。リンチのもう1つの映画スタイルのトレードマークであるグロテスクな作風が、ここで掛け合わされた。子供の泣き声にこれ以上耐えられなくなった母親(あるいは、その機能をもった生き物と表現すべきか)。メアリーの身体から出るへその緒の欠片たち。最終的には文字通り言葉で表せない物質を分泌する虫のようなものに変わる、赤ん坊の忘れ得ぬ変身。ヘンリーが赤ん坊のおむつを変えようとするシーン。風の吹く音、遠くの列車、話し声の様々な変形など、断続的な雑音が使われたサウンドトラックの並外れた効果。これら全てが視聴者の心に焼き付けられ、「イレイザーヘッド」を二つとない体験に仕立てる。究極的に「イレイザーヘッド」は、出生、始まり、変身の物語だ。明らかにこれは作品の主人公であるヘンリーについてであるが、より分かりやすく例えて言えば、この映画は、驚くべき作品を公開した監督として、飛び立つ準備のできたデビッド・リンチについてである。
  「イレイザーヘッド」の成功劇はじわじわと始まり、週を追うごとにだんだんと聴衆に火がついた。着々とアメリカ中での現象になり、特にニューヨークでは支持者を集める。お気に入りの映画として「イレイザーヘッド」を主張したジョン・ウォーターズもその1人だ。1978年、映画は「アボリアッツ国際ファンタスティック映画祭」に参加し、ウィリアム・フリードキン(「エクソシスト」の監督)が司会をする審査員により、アンテナアワードを受賞。批評家の意見も分かれ、完全な成功とは見なされなかったものの、作品は足跡を残した。その後しばらくの間、リンチは途方に暮れていたようで、次の作品制作への複雑な行程へ再び入る準備ができないようだった。「イレイザーヘッド」の長い旅から抜け出たばかりで、彼は再婚をする。しかしながら「イレイザーヘッド」の大ファンになったプロデューサーのスチュアート・コーンフィールドから、共同制作の提案を受けた。またリンチは、日の目を見る事がないも断続的に進められてきた未実現のプロジェクト「ロニー・ロケット」の脚本も書き始めた。そうして長い間の様々なプロジェクトを経て、ついに「エレファント・マン」(脚本クリストファー・デ・ボア、エリック・バーグレン)が、リンチ2作目の主要作品となる。そして驚くべきことに「ヤング・フランケンシュタイン(1974)」を監督したメル・ブルックスが、「イレイザーヘッド」の上映にて感銘を受け、プロデューサーとして舵を取った。

※原文 Masters of cinema "David Lynch" by Thierry Jousse
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2000年05月

16日

DAVID LYNCH 03

「グランドマザー」から「イレイザーヘッド」へ
「アルファベッド」は、この映画作家の前進に重要な作品となった。この作品は、次の作品となる「グランドマザー(1970)」の脚本と同様に、彼をロサンゼルスの映画学校、アメリカ映画協会(AFI)へと導いた。1970年、リンチは小さな家族と共にカリフォルニアへ移動し、まもなく「グランドマザー」に取り組み始める。前2つのプロジェクトに比べ、より野心的な、34分間の作品となった。ここでもリンチは、アニメーションと実際の録画映像を組み合わせ、また新しくモノクロとカラーの映像も繋いだ他、無音のシーンと話し声のサウンドトラック(記録音声)を用いたシーンを掛け合わせた。なお一層、はっきりとした物語の作風が流行の中、「グランドマザー」は「アルファベット」にあった子供の人物像を起用し、今度はそれを不愉快で暴力的でさえある両親の犠牲になる若い少年に変換した。少年は自ら自分の部屋に避難し、ベッドの真ん中に土の小山を作る。それは素早く有機的な泥の彫像に変成し、同じようにして、無口で親切なおばあさんの姿へと変わる。隠喩的な点からこの作品は、トラウマの環境から逃げ出すために混成の人物になることをもって癒しを見つける、この芸術家の姿の描写としても、捉えることができよう。おばあさんの像が、少年が空想と感情を結びつけることができる想像上の物体であることはまた明らかで、結果的にその創造物は、芸術作品になる。この単純すぎる解説では、本質的に詩的で少々病的なこの映画作家の世界が表面化された「グランドマザー」の奇妙さを捉え切ることができない。

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  この作品の制作中に、リンチはアラン・スプレットと出会った。彼は音に関してのリンチの分身であり、この時期からほとんどの作品のサウンドトラックを手がけた。そしてこの頃にリンチは、彼の最初の長編映画となる「イレイザーヘッド」に取りかかる準備が整うまでにたどり着く。視聴者をサウンドとイメージの長い旅へと連れる、手作りの傑作だ。リンチは1971年にこの作品の準備を始め、1年後に撮影を開始する。それから6年もの時間を経て、1977年3月19日、ロサンゼルスにて「イレイザーヘッド」の正式公開となった。当初撮影までに計画された6週間とはほど遠く延長された長い間、リンチはこの作品制作に取りかかっていた。実際、この作品制作(本来はアメリカ映画協会の卒業作品)の長い旅に突入した時、彼はこの規模がどれだけ増大するかはわかっていなかった。
  アメリカ映画協会(AFI)の生徒として、リンチは21分間の映画を撮るための5,000ドルの助成金を受け取った。仕上がりの作品はもっと長くなるだろうと考え、中規模の41分間の作品を作る許可を得る。撮影には、AFIが所有する別荘の部屋を含め、様々な地元の高級地を利用した。またスタッフとして、弟のジョンや、アラン・スプレット、後のTVシリーズ「ツイン・ピークス」の丸太おばさんになるキャサリン・コウルソンなど、リンチの周りの近しい人々による一団を結成した。1973年の夏、撮影が中断する。主な理由は、リンチが長編映画を作っていることに嫌疑をかけたAFIが、資金やフィルム供給を削減したからだ。夜の撮影が再びできることになったのが、1974年5月のことだった。この時期に、リンチは離婚をし、しばらくの間撮影現場に住むはめになった。
  1975年、リンチとスプレットはガレージにこもり、この作品の様々な音響効果(多くは手元にあるあらゆるものが使われた)に取り組んで数ヶ月を過ごした。1976年の春に「イレイザーヘッド」はほぼ完成し、リンチはカンヌ映画祭への作品提出を試みて、音響編集の目的でニューヨークへ行きがてら映画祭の選考委員会を目指すのだが、委員会は彼の到着までに終了していた。1977年秋、映画は、ニューヨークのグリニッチ・ビレッジにあるシネマ・ビレッジにて、土曜の夜の魅惑的な環境の中、封切りを迎え、ここでの上映が「イレイザーヘッド」のカルト映画としての地位を確実にし、現象化することになった。

※原文 Masters of cinema "David Lynch" by Thierry Jousse

2000年05月

13日

DAVID LYNCH 02

出生、始まり、変身
イレイザーヘッド、エレファント・マン、デューン

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遊牧の子供時代
デビッド・リンチの最初の主要作品「イレイザーヘッド」(1977)は、ジャンルにおける非常にユニークな傑作である。これは彼がそれまでに撮った唯一の映画だったが、例えばチャールズ・ロートンにとっての「狩人の夜」(1955)のように、今なお彼を完全なる映画史の一部にのし上げる作品だ。企画から演出、流通までに渡って完全にオリジナルの「イレイザーヘッド」は、30年以上途切れなく続くこの監督の奇妙な創作活動の序曲に過ぎない。しかし、スタートとしてこの作品は、映画へと進む道はとても少ないと思われる環境の中、1946年1月20日モンタナ州の中心地ミズーラに生まれた若い夢想家にとっての、最初の勝利の喜びを示した。子供時代について話す時、リンチはいつも、唯一の挑戦が強制的な遊牧生活であった白日夢のような、田園詩風の幕間、と表現する。デビッドの父、ドナルド・リンチは、農林省に属する生物学研究者として働き、たびたび国中を回っていた。リンチ一家は、頻繁にその数を増やしながら、ミズーラからアイダホ州のサンドポイント、ワシントン州のスポーケン、ノースカロライナ州のダラム、アイダホ州のボイシへと移り、最後にバージニア州のアレクサンドリアに居を定めた。デビッドが14歳になった時だった。このアメリカ山岳地帯を渡る一家の移動は、リンチにとって心深くへの旅となり、間違いなく彼のその後の作品(「ブルー・ベルベット(1986)」「ツイン・ピークス(1990-1)」「ストレート・ストーリー(1999)」)に影響を及ぼしている。リンチの子供時代は、内なる感覚(表面下にある、群がり、煮えたぎる、より抽象的な深い感覚)の発見となってきたようだ。それもまた1950年代のことだった。少年時代に対する強い興味は、リンチから離れたことはない。その時代が迎えたのは、ロックンロールの誕生、デザインの愛好、車への熱中、消費社会への興奮状態の突入だった。そのみなぎる楽観傾向の空気は、一貫して多くのリンチ映画(特に「ブルー・ベルベット」「ワイルド・アットハート」[1990]「マルホランド・ドライブ」[2001])のモチーフとして再発している。

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絵画から映画へ
青年期のリンチの最初の情熱は美術であった。この未来の監督は14歳の頃に絵画に夢中になり、数年の間それを追求した。映画作品を作りはじめ、専門職として映画を選ぶことになろうと、実際、彼はその芸術形態を完全に諦めたことはない。1964年にボストン・ミュージアム・スクールに入学したが、入って間もなく心を変え、友人のジャック・フィスクと共にヨーロッパへの留学を決めた。2人の若者は、最終地点にウィーンを選び、表現派の画家オスカー・ココシュカに会おうとするも実現せず。ヨーロッパは自分らに合わないとの結論に至り、滞在は2週間となった。若いデビッドは、わびしく両親の元へ戻ったが、彼らの反応は大学に行かない彼を閉め出すことだった。のちに彼はフィラデルフィアの友人と付き合うようになり、ある建築事務所に勤めたが、なかなか出勤せずにすぐに解雇される。
  実質的な転換は1965年頃にやってきた。彼がフィラデルフィアのペンシルバニア美術アカデミーで学ぶことを決めた頃だ。これは彼が、アーティストとしての可能性を真剣に考えることを決めた時期となる。1967年、彼は後に妻となるペギー・リーヴィーと出会い、その1年後、初めての子供、ジェニファー・リンチが生まれた。(何年も後の1992年、ジェニファー・リンチは明らかに父の影響が見られる映画作品「ボクシング・ヘレナ」を監督することになった。)アカデミーでの時期に、リンチが至ったのは、絵画には欠けている2点があることだった。動きと音である。この新しい気付きによって、彼は16mmカメラを入手し、最初のフィルム作品「シックス・マン・ゲッティング・シック(1967)」を撮る。これは簡単な実験進出で、映画へのアプローチとはほど遠い、動く絵画のようなショートと言おうか、アニメーションというより正確には、赤い色が占めるバラバラのイメージが繋がれていた。歪みの表現で遊びながら、リンチのフィルム作品には若干不穏で永続的なサイレン音がつきまとい、それが恐らく逆説的には、リンチの中にも彼の最初の視聴者の中にも映画の認識を浮かび上がらせる要素であった。アカデミーの年度末展覧会にて「シックス・マン・ゲッティング・シック」は、新進気鋭の映画作家として共同優勝を果たす。リンチはこの最初の試みの相対的なコスト高を後悔するも、すぐにまたフィルム作品「アルファベット(1968)」に挑み、アニメーションと純粋な録画映像を掛け合わせた。この4分間の作品は、残酷なまでに、リンチの言葉に対する不信と、作品の中心に横たわる暴力を表明する。彼は、強烈なアルファベットの文字によって文字通り水没する子供の身体を通して、広がる不安感をつくり出す。作品は彼女の吐血で締めくくられ、まるで彼女の身体が言葉への強制的な入門を、徹底的に拒絶してきたかのようだ。リンチの音への注視もまた、この作品の特徴で、著しくは彼の娘であるジェニファーの叫びのランダムな録音が、サウンドトラックとして使われている。

※原文 Masters of cinema "David Lynch" by Thierry Jousse

2000年05月

12日

DAVID LYNCH 01

はじめに

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代表的な現代の映画監督の中でも、最も明白に全ての芸術分野を網羅するデビット・リンチ。彼の作品を通して、映画は、絵画、音楽、他の様々な芸術形態と、直接的に結びついてきた。とはいえ、リンチは、彼だけが持つ秘密の矛盾の中、例えば21世紀前半10年間で最も良い映画の1つと評された「マルホランド・ドライブ」に熱狂した全世代にとっての、ずば抜けて優れた監督、というわけではない。全くもって自由な年月を通し、ロングランのカルトTVシリーズ「ツイン・ピークス」からカルティエ現代美術財団でのギャラリー展示への移行、またディノ・デ・ラウンティスの超大作「デューン」からデジタルビデオ作品「インランド・エンパイア」への変貌など、リンチとは、生きるパラドックスである。全くのアメリカ人ながらヨーロッパ人にプロデュースされ、1950年代に心を奪われながら最新映画技術を用い、トランセンデンタル・メディテーションの支持者でありながら人間の魂の超越した深みに魅了される、この「ブルー・ベルベット」と「ロスト・ハイウェイ」の監督は、可能な限りの矛盾をもって楽しむのだ。このことが、彼の作品をしばしば解説を要する謎に包み、全ての芸術分野に大きな影響を与える。

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本質的にリンチは、滅多に挑戦を受けることのない、独立と習熟があらゆる行為に現れる何よりもの芸術家だ。彼は自分の無意識に直接的に触れ、また、あっと言わせるような超現実世界への降下で聴衆の無意識にも触れる。イザベラ・ロッセリーニやパトリシア・アークエットを最良の効果で撮ってきた監督は、まだなお私たちに提供する驚きを蓄えている。彼は、たくさんに別れた部屋を持つ彼の宇宙世界へのキーを明らかにするのを頑なに拒む事によって、彼の作品に対する聴衆にも解説者にも、全てのファンが参加を熱望する刺激的な宝狩りを提供するのだ。私たちは、アメリカのひっそりとした山岳地域から、国際的な名声の頂点までのルートをたどることで、議論を引き起こし続ける男の神秘と一連の作品を解明したい。

※原文 Masters of cinema "David Lynch" by Thierry Jousse

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